よそのスキーブログを読んでいて「たごまる」という言葉に出会いました。
初めて見る言葉です。調べると、「服を重ねて着たときに下の服がちゃんと伸びずに中で重なっている状態」のことを言う方言だそうです(北関東以北? 地域によって多少用法が違うようです)。たとえば、長袖の上に長袖を着たら中の長袖が内部でたくしあがっちゃってキモチワルイ、みたいな時に使う。
おそらく東京弁や標準語にはこれに対応する言葉は存在しません。機能的にたいへんすぐれた言葉だと感銘を受けましたので、ぜひ全国区になってほしい。たごまる、みんなで使いましょう。ラ行五段で活用します。
毎度。俺です。
さて、前回は「生徒が求めているものとSAJ校が教えていることのミスマッチ」という観点から「スキー学校は具体的な目的意識を持たない発展途上のスキーヤーに基礎スキーという目的を与えはするものの、基礎スキー以外の目的に目覚めてしまったスキーヤーを適切に導くことができない」といった話をいたしました。いや、そんなこと実際には一言も書いてないんですが、後から読み返してみて自分が言いたかったのはきっとそういうことかなあと思ったので強引にそういうことにしてしまえ。
今回は「社会が求めているものとSAJ教育本部が提供しているもののミスマッチ」について考えます。
すでに前回・前々回の記事にいただいているコメントでも皆さんから示唆いただいているので、さらっといきましょう。かいぞーさんからいただいたコメントをそのまま引くのが手短でよさそうです。
とはいえ、公益財団法人として税金も払ってないんだから、基礎スキーという特殊ジャンルだけでなく、スキー全般に貢献してもらいたいところではあります。
これに尽きると思います。
つまり担えと。
日本最大のスキー教育組織であるからには、どんなスタイルのスキーにも通底する普遍的なスキー理論でもって日本のスキーヤーの裾野全体を支える役割を担うべきである。
ということでしょう。
もっと言えば、
基礎スキー以外にもスキーには多様なスタイルの楽しみ方があることを伝え、当然のことながらそれらのどのスキースタイルにもそのまま応用が利く技術でもって入門者を導くべきである。
ということも言えると思います。
これをせずに最初からSAJローカルな技術ばかり教えるものだからハイブリッドスキーはあれだけのバッシングを受けたのだと思います。そういうことは身内の遊びだけにしてくれと。将来ワールドカップ選手やX-GAMES選手に育つかもしれない子どもたちにおかしな内倒ローテーション滑りなんか教えてくれるな、日本のスキーをダメにする気か、と。
実際にダメになってるかどうかは知りません。
ハイブリッドスキーイングのせいで日本のスキーがダメになってるかどうかなんて今のところ検証のしようがありませんし、ハイブリッド時代に技術選のスタア選手であった小野塚彩那はフリースタイルスキーでも素晴らしい成績を残しました(その時の荷重は外脚でしたが)。
右も左もわからない初心者をツブシの利かないスキーヤーに育て上げて基礎スキーでしか生きていけないカラダにしていること、つまりスキーヤーを基礎スキーに囲い込むことは責められるべきことなのでしょうか。
たとえばかいぞーさんが挙げておられる「公益法人なのだから」という点はあまり根拠にならない気がします。スキー界「全体」に貢献することが法人格を得る条件だったわけではないでしょうし、基礎スキーを通じてスキー振興をはかるだけでもじゅうぶん公益性はあります。
つまりSAJはスキー振興の一助となっていさえすれば法的責任は果たしていると言ってよく、やはり問われているのは道義的責任ということになります。問題のあいまいさ、責任の持って行きどころの不確かさがはっきりしてきましたね。
じゃあ、SAJ教育本部は道義的にどうあるべきなのでしょうか。
これも考え始めるとこの記事をアップするのがどんどん遅くなりそうですので次に回したいと思います。引っ張りまくりですみません。