タイラー・ハミルトン、ダニエル・コイル共著『シークレット・レース〜ツール・ド・フランスの知られざる内幕』を読んだ。これがもう、抜群に面白かった。
『シークレット・レース ツール・ド・フランスの知られざる内幕』
タイラー・ハミルトン、ダニエル・コイル 著 児島修 訳 小学館文庫
ものすごく大くくりに言うと、いわゆる暴露本である。
ヨーロッパのプロ自転車ロードレースの第一線で活躍したタイラー・ハミルトンが、その選手生活を「ドーピングとのつきあい」を軸に語る(本文はハミルトンが一人称で語る形式をとっているが、正確にはスポーツライターのダニエル・コイルが2年の歳月を費やして聞き取ったインタビューを再構成したものである)。
プロロードレースの世界が薬物にどっぷりであることはフェスティナ事件やオペラシオン・プエルト、その後も続々と報道される一流選手たちの陽性反応、フロイド・ランディスの告白、きわめつけはランス・アームストロングのテレビ番組での告白などでじゅうぶん承知していたつもりだった。
しかし、この本で語られていること──ドーピングがいかに広範に、かつ気軽に、巧妙に、高度に行われていたかを、あらためて当事者の口から語られるとやはり驚きの連続。自宅を検査官に抜き打ち訪問されて夫婦で床に伏せるくだりなど、まるで犯罪小説を読んでいるような錯覚に陥ってしまう。というか、ノンフィクションであるだけに並の犯罪小説よりもスリリングだ。
業界に巣食う薬物汚染の実情と、心揺れ動きながらもその渦に飲み込まれていくハミルトンの運命というのが本書の大きなテーマのひとつなのだけれど、実はもうひとつ大きなテーマがある。
オビに踊る「『アームストロング神話』は本書をきっかけに結末が書きかえられた。」のタタキ文句のとおり、この本はランス・アームストロングの告発書でもあるのだ。
はっきりと言うが、ランスのファンは本書を読まないほうがいい。
本書において、ランス・アームストロングはもうひとりの主人公かむしろ主人公以上の存在感で語られる。そしてその姿のほとんどは「気分屋で冷酷無慈悲で攻撃的なお山の大将」、つまりジャイアンとして描かれる。勝利に対する執着心は常軌を逸しており、競争相手を叩きのめすためには手段を選ばない。そうした冷酷さはライバル選手にとどまらずチームメイトにも向けられる。本書に描かれるランスからは、いっさいのモラルを感じることはできない。ハリウッド映画の悪役もかくやというような巨悪として描かれている。
ツール・ド・フランスというレースのステータス、過酷さ、ビジネスの大きさを考えると、7連覇という偉業の裏でどのようなことが行われていたとしても不思議はないが、この本を読むとその歴史的な偉業はカネと権力を手に入れたテキサスの精神病質者が自転車界を腕ずくで牛耳って作り出した壮大なウソだったということがわかる。
どこまでが事実でどこまでがハミルトンの私怨なのかは我々にはわからないが、ともかくランスに関する記述は本書を通じて首尾一貫していて、私には信頼できる内容と感じられた。
私はもともとランスのことはそれほど好きではなくて、連覇中はむしろ「ランスを引きずり降ろすのは誰か」だけを楽しみにツール・ド・フランスを観戦していたクチだけれど、それでもこの本で描かれるランス像には少なからず幻滅を味わった。こんな野郎にみんなが振り回されていたのか、と。
なので、「ドーピングはしてたかもしれないけど、それでもやっぱりランスはすごいやつだ」といまだに崇敬の念を捨てきれずにいるファンは、悪いことは言わない、この本を読まないほうがいいと思う。
しかしそうでない自転車競技ファンはぜひ読んでほしい内容だ。特に、ハミルトンの時代にロードレースを観ていた人にはおなじみの選手もたくさん出てきて、業界裏話的な楽しみ方もできる。訳の良さもあろうが、文章じたいがとても読みやすく面白いので、ドーピングばかりでなくもっとロードレースの「普通の」舞台裏をたくさん紹介してほしかったと思う。
日本では訳出期間の関係でオプラ・ウィンフリーによるインタビューの後に刊行されるかたちとなったので、本書のもたらすショックはそれほどでもなかったと思うけれど、アメリカ本土ではそれより前に刊行されたので世間に与えたインパクトもさぞや大きかったろう。
ランスのドーピング疑惑の時系列はこんな感じだ。
2010年5月 | フロイド・ランディスによる証言 |
---|---|
2011年5月 | タイラー・ハミルトン、TV番組で証言 |
2012年6月 | USADAによる告発 |
2012年9月 | ハミルトン「シークレット・レース」刊行 |
2012年10月 | 永久追放処分確定 |
2013年1月 | ランス、TV番組でドーピングを告白 |
本土では、外堀が埋まったところに引導を渡したような役割を果たしていることがわかる。そのインパクトの大きさは米アマゾンで本書のレビュー投稿が700件を超えていることからもうかがい知れる。
お疲れ様です。
この本タイトルがツールドフランスと書いてあるあたりがまだまだ日本での自転車競技の認知度の低さを物語っているようで残念ですが、仰る通り実に名著だと思います。
ロードレースと言う人間の限界に挑戦し、結果その限界にぶち当たったアスリート達の取る選択肢…
ハミルトンが最初に手を染めた瞬間からゾクゾクしました。
まだ途中までですが、いろんな方にオススメしています。
残念ながら先日日本人選手でもEPO陽性反応が出ました。
そういう意味でも今起こっていることを知ることも大事ですよね(。-_-。)
>ぷるるん男爵さん
毎度コメントありがとうございます!
えっ、日本人でEPO陽性って、自転車競技ですか!? 知りませんでした……
全盛期のハミルトンのファンだったのでたまらず手に取ったんですが、読めば読むほど「いいやつ」ですね、この男……。
わたくしふだんノンフィクションはほとんど読まないのですが、この本は読んでよかったです。通勤やら寝床やらで読みふけり、平日の1.5日間で読了してしまいました。
※ ちなみに副題「ツール・ド・フランスの知られざる内幕」は、原題からそのままいただいたもののようですよ。「The Secret Race: Inside the Hidden World of the Tour de France」となっています。
>gyochanさん
お疲れ様です。
幸い自転車競技では有りません。
女子マラソンです。
http://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/f-sp-tp0-20130523-1131897.html
貧血対策という理由ですが、処方時にアスリートで有る事を宣言しなかったらしいので、クロだと思われます。
僕はこの本で関心した点が、例のフェラーリ医師。
マッドサイエンティストっぷりだけが先行していましたが、読めば物凄く進んだトレーニング理論があり、その為のドーピングだったと言うことが判ります。
ドーピングそのもので一時的に体力が上昇するだけでなく、それによる計算されたトレーニングってとこも興味深い内容でした。
件のサブタイトルの件、おっしゃる通りでしたね。勉強不足でした… m(_ _)m
>ぷるるん男爵さん
なるほどなるほど。
ほかの症状ならともかく、「貧血」の治療ですからこれはもう故意の摂取と判断されてもしょうがないですね(もっとも、故意だろうが過失だろうが等しく罰せられるべきだとは思いますが)。
『シークレット・レース』にも書かれていますし、Jスポーツの中継解説でもたびたび語られていることですが、トッププロの世界でもつい最近まで根性論主体の「たくさん走ればいい」式のトレーニングがまかり通っていたことは驚きですね。今でこそ心拍管理や出力管理は日本のハイアマチュアでもやっていることですが。
チームスカイがレース後に「回復走」を採り入れたらみんなあわててマネしだしたとか……。薬物に頼る前にまだやることたくさんあるんじゃないの? と思ったりします(笑)。
>gyochanさん
ですね。
今読んでいる部分がつい2−3年前の話の部分ですが、それでもトレーニングが未完成なチームが多い様ですね。
確かにランスは詐欺師ではありましたが、努力家だったのは事実であり、その点はやはり尊敬に値すると思います。
(チャンピオンとしての振る舞いは別として)
スカイの件もおっしゃる通りですね。
スカイの強さは、計算されたトレーニングによるものと言う意味では中途半端なドーピング以上の効果があるのでしょう。
でも、カベンディッシュは電動アシスト乗っていると思います( 笑)